「手を使って」考える
2024/11/8
「悪魔の手毬唄」
最近「金田一耕助シリーズ」にハマっています。
色々な作品がありますが、個人的には「市川崑監督、石坂浩二主演」の金田一シリーズが一番のお気に入りです。
その中でも、特に好きなのが「悪魔の手毬唄」です。
ストーリーもさることながら、岸惠子さんの美しさが圧巻です。
何度も見てしまいます。
さて、この作品の中に「多々良放庵」という人物が出てきます。
この人物、字が書けないので、金田一に「自分の代わりに手紙を書いてほしい」
と依頼するシーンが出てきます。
「昭和の初期の頃までは、字が書けない人がいた」
義務教育がしっかりとしている現代日本では想像できないことです。
が、100年くらい前までは、そうした状況が普通にあったのだろうと思います。
「書く」ということ
そんなシーンを見ながらふと、
「『書く』ということを、我々は普段何気なくやっているけれども、実は『書く』というのは、結構高度な技術なのかな」
ということを思いました。
今は小さい頃から学校で「書く」練習がなされています。
字のうまい、下手はあるかもしれませんが、「字が書けない」という人は、今の日本ではほぼいないと思います。
それは「当たり前」のことではなく、小さい頃の、訓練の賜物である。
「悪魔の手毬唄」を見て、そのようなことを思いました。
「手を使って」考える
また、「手を使って勉強する」ということは、より「頭を使って考える」ということにもつながるのではないか。
そのようなことも思いました。
算数や数学の応用問題を解かせてみると、生徒は色々な反応をします。
この時、多くの生徒が「頭だけで」考えています。
こうした生徒は、頭を抱えてウンウンうなっていますが、結局は解けずに諦めることがほとんどです。
その一方で、あれこれと図を書いたり、数字を書き出したりして、何とか問題に食らいつこうとしている生徒もいます。
結局は解けずに終わるのですが、このようにあれこれと「書いて」考える生徒の方が、後々難しい問題でも解けるようになっていきます。
そうした生徒の様子を見ていると、
「手を使って考える」
ということの大切さを感じます。
意識的に「書く」
勉強というと「頭を使う」ということだけに意識が向きがちです。
ですが、ある程度「体を使う」、あるいは「体で覚える」という部分もある、というのが、生徒を指導していて感じることです。
最近はパソコンやスマホの普及により、以前と比べると「書く」機会が減っていると思います。
その状況にどっぷり浸かってしまうと、頭が鍛えられないのではないか。
そのような気がしています。
なので、生徒たちには、とにかく「書く」ということを習慣化させたいな、と思っています。
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